川中島の戦いの勝敗はどうなった?謙信と信玄の一騎打ちは本当にあった?
こんにちは!
今回は上杉謙信と武田信玄のライバル関係を象徴する川中島の戦いについて語りたいと思います。
この二人を語る上ではやはり外すことはできないでしょう。
宿敵とされた二人の戦い、これらの勝敗が気になるのは私だけではないと思います。
恥ずかしながらずっとどっちが勝ったのかな、と放置しておりました。汗
5回に及ぶ川中島の戦いの勝敗は信玄と謙信どっちが勝ったのでしょうか?
川中島の戦いの勝敗はどっち?
実は、川中島の戦いには明確な勝敗はありません。
1553年から1564年の間に川中島の戦いは5回も起こっていますが、どれも引き分けといっていい結果になっています。
ですが個人的な私の見解では、謙信の勝ちだと考えます。
状況的なものからしか勝敗を決めるしかないので、5回の戦いを解説しますね。
まず、何年に合戦が起こったかというと……
- 第一次合戦(1553年)…引き分け
- 第二次合戦(1555年)…引き分け
- 第三次合戦(1557年)…引き分け
- 第四次合戦(1561年)…引き分け
- 第五次合戦(1564年)…引き分け
本当に5回の戦いが引き分けになっています!!
基本的に川中島の戦いはにらみ合いだったり、和睦をしたりと明確にはついていないんですね。
なので、勝敗を見ていくならばその戦をすることでより成果を出した方を勝者とするか、
もしくは損害がより少なかった方を勝者とするしかありません。
川中島で成果を出した方は…
まずは謙信と信玄のそれぞれの成果を見ていくと、
謙信の場合
第一次合戦
村上義清の要請を受けて出陣。村上氏は謙信に支援されて葛尾城の奪還に成功します。
信玄に塩田城を落とされ、村上氏は越後に逃れます。
謙信は塩田城に兵を向けますが、信玄が塩田城にこもり決戦を避けたので引き揚げます。
謙信「村上が復活できなかったのは残念だけど、北信濃の国人衆は武田になびかなかったのでよし!」
信玄の場合
第一次合戦
村上氏を攻め立てていた信玄です。
しかし、謙信に助けを求められてしまい戦うことになりました。
長野盆地を制圧しようとしていたら思わぬ敵が現れた感じです。笑
信玄「長野盆地は手に入らなかったけど、村上の本領は手に入ったから上々!」
双方、一応の成果は出ているので引き分けですね。
ちなみに、謙信は後奈良天皇から「私敵治罰の綸旨(りんじ)」をもらっています。
これは簡単に言うと「謙信と敵対するやつは賊軍だぞ☆」ってことです。
第二次合戦
謙信「今川氏に仲介に入ってもらって和睦した!長野盆地の北半分を確保したぞ」
信玄「和睦したけど、木曽義康・義昌父子を降伏させたぞ! 南信濃平定バンザイ!」
これ和睦後に信玄が裏切っちゃってるんですよね。(^-^;
信玄は謀略家なイメージありますけど、絶対裏切る前提で結んだやろと言いたくなります。
信玄が裏切っちゃってるのでどっちがより成果出してるのでしょうか。
個人的には、謙信勝利でいいのかなと思います。
戦国時代だから裏切るのは当然の時代ですけど、和睦の条件そのままだと自分の戦果が薄いな…ってことで信玄が行動したのではないかと。
この時代メンツとかめちゃくちゃ重要そうですしね!
第三次合戦
この戦いも信玄が決戦を避けていました。
今度は将軍足利義輝が二人に和睦を勧めます。
この第三次合戦が終わると、
謙信「盟友の高梨が弱体化してしまった! 北信国衆の支配を強化して家臣化しちゃえ」
信玄「和睦の条件に信濃守護職を要求してやったぜ」
第三次合戦では信玄の旗色がよさそうです。
うん、信玄の勝ちでいいんじゃないかな。
第四次合戦
小競り合いが多かったなかで、最大規模での戦いとなりました。
一般的に「川中島の戦い」というと、この戦を指すことが多いです。
私もやはりこの戦いが浮かんできます。
確実な史料は存在しないので、軍記物語に書かれている内容での判断になります。
信玄と謙信が一騎打ちをした、といわれるのはこの第四次合戦です。
謙信「武田軍の不意もついたし、重要な武将も討った。私の勝ち!」
信玄「前半は後れをとったものの、形成不利になって上杉は退却した」
また、なんとも判断しがたい……。
退却する謙信を信玄は追撃していませんが、大事な武将を失っています。
- 武田信繁(弟)
- 山本勘助
- 諸角虎定
ここでの死者は、謙信が約3000で信玄が約4000を出しています。
主だった武将を信玄は失っていますが、甲陽軍鑑だからかもしれません。
謙信側の損害は同じくらいに記されていたのかどうか……。
難しいところですが、謙信の勝利でいいと思います。
第五次合戦
これもにらみ合いで終わった戦いです。
塩崎の対陣ともいいます。
信玄が決戦を避けたので大した衝突になりませんでした。
謙信「北条と戦おうと思ったらまーた信玄が背後狙ってくるし…いったいなんなの!?」
信玄「牽制牽制っと」
第五次合戦にいたっては戦う気ほぼなし。
もう引き分けどころか本当に向き合っただけですね。笑
こういった5回の合戦の状況から、私は謙信勝利と判断しました。
信玄は謙信と直接戦わずともいい、と考えていたのではないでしょうか。
謙信は本当はしっかり決着をつけたかったのでしょうが、信玄にのらりくらりとかわされ引き分けに持ち込まれた感じです。
まあでも、謙信優位な合戦だったといってもいいでしょう。
謙信と信玄の一騎打ちについて
川中島の戦いで外してはいけないのは、やはり「謙信と信玄の一騎打ち」でしょう。
ただ、これは本当に起こったことなのでしょうか。
戦で大将同士の一騎打ちなんてまずありえません。
首を取られたら大変ですし、本陣の奥深くにいるのが普通です。
「甲陽軍鑑」では謙信が本陣に攻め入ってきて太刀を振り、信玄は団扇で応戦したと書かれています。
だったら一騎打ちあったじゃん! と言いたいところですが謙信方の記録では違っています。
「上杉家御年譜」では、本陣を崩された信玄が御幣川(おんべいがわ)に逃げのびる様子が記録されています。
そこを、謙信の家臣・荒川伊豆守が斬りかかるわけですね。
そうです、信玄側と謙信側では相手が違っています。
どちらも信玄が受ける相手なのは同じなのですが……。
さて、どちらが正しいのかというと天海とのやりとりから謙信側の記録の方が信ぴょう性が高いといえるでしょう。
天海「謙信と信玄が一騎打ちしてた」
信玄「それわしじゃない。甲冑を同じにしてた影武者」
でも、信玄は負傷していてもたれなければならない状態でした。
見栄っ張りさんですね。笑
ともかく、嘘をつく理由としては相手が無名の武者だからでしょう。
そんなもの一騎打ちしたなんて知られたら末代までの恥になるかもしれない、とイイ感じで脚色したのではないでしょうか。
どうせなら、正々堂々と本陣に入ってきて強敵っぽくしておこう!
なかなかのシナリオライターですね。
それにしても一騎打ちがなかったのは残念だ……。
川中島の戦いの始まり
各合戦の発端ですが、だいたいの原因は信玄にあるといってもいいかもしれません。
第一次…村上氏が信玄に攻められ、高梨氏を通じて謙信に助けを求める
第二次…信玄が、謙信と仲の悪い北条氏と同盟を結ぶ。善光寺の国衆も寝返らせたよ!
第三次…出家しようとする謙信。信玄、和睦しても調略を進めている。家臣も内通した!
第四次…大義名分も得たし北条と戦うぞ…! 信玄が背後から狙ってきた!!
第五次…北条と戦うと信玄がいつも後ろから狙ってくる、うざい!
この時代にいないし、できごととかだけ見るとなんだか2人がかわいく見えてくる不思議。笑
「はかのいかぬ戦をしたものよ」と秀吉にいわれるのもしかたないような……。(;’∀’)
謙信は神社に「武田晴信悪行之事」と書いた願分を奉納していたそうです。
必ず退治すると誓っていたといいます。
もうそれこそ目の上のたんこぶ状態なんでしょうね。
約束は破るわ、味方を裏切らせるわ、いつも背後狙うわでめちゃくちゃうざいので当然ですが。笑
まとめ
謙信と信玄の関係を象徴する川中島の戦い……。
それは意外にも大きな衝突は第四次合戦だけでした。
宿敵と言われていますが、どちらかというと謙信はちょっかいを出されて戦いに入っている感じがします。笑
信玄も味方を裏切らせたりと謀略の鬼ですね。
簡単にまとめると
- 明確な決着はない…
- 大きい戦いは第四次合戦で信玄は危ないとこまで追いつめられる
- 一騎打ちしたのは無名の武者
決着がつかなかったからこそ、上杉武田のライバル関係は互角に見えるのでしょう。
そして、二人はお互いのことを認め合っていました。
信玄は勝頼に自分の死んだのちは謙信と仲良くしろと言い、
謙信も信玄の死を聞いたとき涙を流したそうです。
お互い素直に向き合えることができたら唯一無二の友としていられたかもしれませんね。