織田信長の年表を逸話を交えて簡単にまとめてみた!
日本史のなかでぱっと思いつくのは誰でしょうか?
……織田信長、と答える人は多いと思います。
むしろ日本史をよく知らなければ知らないほど答えるくらいに有名ではないでしょうか。
小学校の授業で、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康のどれを調べたいかということがあったときには信長に一極集中していたのを覚えています。笑
織田信長の年表を逸話と一緒にご紹介していきます。
うつけと言われていた少年期~家督を継ぐまで
まず、信長の生誕から家督を継ぐまでを見ていきますね。
信長は順風満帆に家督を継いだわけではありませんでした。
頭角を現すまでの年表が以下の通りです。
1534年(1歳) | 尾張の戦国大名、織田信秀の嫡男として生まれる |
1546年(13歳) | 元服して三郎信長として名乗る |
1549年(16歳) | 斎藤道三の娘・濃姫と政略結婚する |
1551年(18歳) | 父・信秀が死、家督を継ぐ |
1553年(20歳) | 尾張と美濃の国境近くにある正徳寺で斎藤道三と会う |
1557年(24歳) | 弟・信勝が謀反を企てたため、清州城へ呼び出して殺害する |
強烈な人柄がよく知られている信長……。
信長の幼名は吉法師です。
幼年期から奇行がよく見受けられ、挙句の果てには「尾張の大うつけ」と言われてしまっていました。(;’∀’)
うつけ、とはぼんやりとした、とか暗愚な人物を指す言葉ですね。
将来の姿を知っていたら恐ろしくて言えなかったでしょうね……。
さて、うつけ時代までの信長の行動と言えば、
- 何人もの乳母の乳首を噛み破っている
- 寺の兄弟弟子の子どもたちに競わせて活躍したものに褒美をやる
- 身分にこだわらずに町の若者と遊ぶ
- だらしない恰好で出歩く
- 父・信秀の葬儀では抹香を投げつける!
と、うつけエピソードもあれば、傑出した人物を思わせるようなエピソードもあります。
常識外れと言われる信長を匂わせる逸話もあります。
お殿様を演じる吉法師
信長はもう子ども時代から大将をしていました。
当時、清州の寺で信長は修行をしているんですね。
そこに母からの贈り物、勉強道具の他にお米や永楽銭一貫ずつをもらっていました。
信長「お、こいつを有効に使ってやろう」
信長は自分のために使うことはしませんでした。
印陳打(いんじうち)で活躍した子どもに褒美としてあげちゃいます!
小さくともお殿様とやることに変わりがありません。笑
幼年期とはいえ、自分が将来の大将だという自覚があったのでしょう。
そんな信長をみて「将来は名将になるに違いない」と感心した人がいたそうです。
正徳寺での会見は斎藤道三にも一目置かれる
大うつけと呼ばれていた信長でしたが、16歳で政略結婚します。
お相手は、美濃のマムシとして恐れられていた斎藤道三の娘です。
娘は濃姫(帰蝶)といいました。
実は、この政略結婚時点では道三、信長のことをまだまだ格下に見ていました。
道三「本当にうつけ者だったらこの刀で刺すんだ!」
と、濃姫に語ったと言います。
さすが下克上の男です、娘使って排除も厭いません。笑
結局濃姫が信長を刺すことはありませんでした。
道三も直接、信長と対面する時がやってきます。
正徳寺の会見。
美濃と尾張の国境付近の正徳寺で行われました。
道三は信長よりも先に会見の場所へついていました。
きっと自分の目で確かめたかったんでしょうね、どんな人物かを。
しかし、現れた信長はいつも通りのだらしない恰好でした。
思わず道三も気を落とすものの、会見時には見事な正装へと信長は着替えていました。
このとき、まるで戦をするかのような立派な軍隊を信長は連れています。
鉄砲隊までいたり、見事な部隊でした。
もしかしたら信長はわざと最初だらしない恰好で来たのかもしれません。
ギャップ効果でも狙っていたのだとしたら人の心理をよくわかる武将だったのでしょうね。
桶狭間の戦い~比叡山延暦寺の焼き討ちまで
20代前半は信長にとって土台を築くための期間だったと言えます。
これから、加速度的に勢力を伸ばしていきます。
38歳までの年表を見ていきましょう。
1559年(26歳) | 13代将軍足利義輝に上洛して謁見する |
1560年(27歳) | 桶狭間の戦いで今川義元を討ち取る |
1561年(28歳) |
斉藤義龍の子・龍興と戦い勝利する |
1562年(29歳) | 松平元康(のちの徳川家康)と同盟を結ぶ |
1563年(30歳) | 小牧山城へ引っ越しする |
1567年(34歳) | 天下布武の印を使い始める |
1568年(35歳) | 足利義昭を奉じ、上洛を開始する |
1569年(36歳) | 三好三人衆に攻撃を受けた足利義昭の援軍にいく |
1570年(37歳) | 姉川の戦いにて、朝倉・浅井連合軍と戦い勝利する |
1571年(38歳) | 比叡山延暦寺を焼き討ちする |
桶狭間の戦いにて天下に名を轟かせる
このころの信長はまだ地方大名。対する今川義元は100万石以上の領地を持つ大名でした。
誰が見ても、
「戦ったら絶対今川が勝つでしょ!」
という戦力差です。笑
信長…5000
義元…25000
というように5倍もの戦力差があったからです。
まともにやっては勝ち目がない信長……。
家臣たちも籠城を信玄したりと弱気な様子でした。
信長「勝負は時の運。打って出る!!」
奇襲をかけることにしたのです。
「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり。ひとたび生を得て、滅せぬもののあるべきか」
信長は敦盛を舞い、出立します。
そして、わずか2000の兵で義元の本陣に突撃して見事討ち取ったのでした。
室町幕府を滅ぼす~本能寺の変まで
もう、ここまでくると天下人である信長の軌跡ですね。
明智光秀に謀反を起こされるまでの年表です。
1572年(39歳) | 三方ヶ原の戦いにて、徳川・織田連合軍が武田信玄に敗れる |
1573年(40歳) | 槇島城の足利義昭を攻め追放する
事実上、室町幕府が滅亡する |
1574年(41歳) | 伊勢長島の一向一揆を討伐する
このとき、立てこもった信徒男女二万人を全滅させる |
1575年(42歳) | 長篠の戦いにて、織田・徳川連合軍が武田勝頼に勝利する |
1576年(43歳) | 安土城へ引っ越しする |
1577年(44歳) | 松永久秀が信長に謀反を起こす |
1578年 (45歳) | 荒木村重に離反される |
1579年(46歳) | 安土城の天守閣が完成する |
1580年(47歳) | 北条氏政を織田政権の支配下に置く |
1581年(48歳) | 京都での馬揃えの準備を明智光秀に命令する |
1582年 (49歳) | 明智光秀が謀反を起こす(本能寺の変)
本能寺に自ら火をかけ自害する |
本能寺の変にて自害する
1582年6月21日、明智光秀が謀反を起こしてしまいます。
信長はわずかな手勢しかいませんでした。
光秀の謀反の知らせを聞いた信長は
「是非もなし」
といったそうです。
要は、しかたないよね、という意味なのですが…。
浅井長政が裏切ったときは「え、長政裏切ったの??」って感じなのに光秀だと納得しちゃう信長です。
どんだけ心当たりがあるんだか…逆にすごいです、どんな人間関係築いていたのか知りたい。
しかし、光秀が謀反を起こした理由は闇に包まれていて日本史最大のミステリーと言われています。
解明されない方がミステリーでいいよね、という方もいるようですが私は知りたいですね。
まとめ
天下人でよく知られる信長の年表でした。
今回はなるべく簡潔にまとめてありますので、いろいろ省略した部分があります。
信長は小さいころから死ぬまでずっと、大将でした。
あくまで自分は人の上に立って指揮する存在なんだ、という自負がこれだけの出来事を成し遂げた要因のひとつではないでしょうか。
焼き討ちなどは褒められた行為ではないですが、信長の徹底した性格からくるのだと思います。
一種の潔癖症みたいなもののように感じます。
信長のエピソードにあまり情のようなものは感じられず、それが天才っぽく映るのですね。