徳川家康の性格と逸話は?名言と死因まで調べてみた!

「織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のなかでは家康が1番好き」

というと、愛知県出身の友人にまで驚かれてしまいます。

 

それもそのはず、この三人というよりも家康ってめちゃくちゃ人気ないんですよね。

陰湿、タヌキおやじなど負のイメージがつきまとっています。笑

でもね、イメージだけで切り捨てるのはもったいない!

 

徳川家康の魅力を性格、名言、死因を紹介しつつアピールしてみます!




 

徳川家康の性格と逸話

家康が人気ないのってひとえに……

我慢!我慢!我慢!!

ってイメージがひたすら強くてパッとしないせいなんじゃ、と思います。

ついでにいえば肥満体というのもイメージ悪いかもしれませんね。

ただ、我慢と肥満だけの男ではありません。

 

まず端的に見ていきますと、

  • 尊敬すべき愉快な容貌(ロドリゴ談)
  • 慎重で守りに徹する
  • 勤勉な勉強家
  • 趣味の鷹狩りですら実益を考えるほどの真面目さ
  • 好奇心が旺盛
  • 歴史をよく学び、敗けた相手でも優れたところがあれば師にする
  • 健康志向
  • 超倹約家
  • 人材を重視していた

 

……この性格、面白みがない!っと人によっては思わざるをえないですね。

家康って何がすごいかというとすべてが「天下を取る」という行動になっているところです。

娯楽であっても特に実益にならなければ興味が向かない、なんていう仕事人間です。

 

今の時代なら漫画とか音楽もあまり興味向かないんだろうな……

知識がいっぱい披露されてるジャンルならまだしも、ファンタジー系は絶対読まないと思います。笑

 

竹千代時代の逸話

家康は幼名を竹千代と言いました。

幼いころから先見の明が光る逸話がたくさんあります。

 

織田家に捕らえられた6歳の頃のお話。

熱田の町人が物真似をする小鳥を竹千代に献上します。

近臣のものはみなその小鳥に感心しているのですが、竹千代はあっさりと返してしまいます。

竹千代「自分の知恵を持っていないものは大将には必要ない」

 

全てを大将である自分に必要かどうかで判断し、無駄になりそうなものには執着を持たない……。

6歳にしてそこまで徹するのか、と驚きの逸話です。

 

三方ヶ原の敗戦を肝に銘じる

家康32歳のとき、武田信玄と戦っています。

まだまだ若武者だった家康は信玄を挑発しました。

 

家康「大将たる者が味方の後ろにいるようでは勝てるわけがない!」

信玄(若造がなんかいっとるわ……)

戦上手の信玄、挑発には微動だにしません。

それどころか裏をかいて家康を敗走に追い込みます。

 

山県昌景の軍勢に追い立てられた家康はなんと、恐怖のあまり馬上で脱糞してしまいます。

浜松城に帰ってくると家臣の大久保忠世に指摘されます。家臣も家臣ですが、家康も負けてません。

「これは味噌である」

 

バレバレの強がりをいう家康。しかし、大将の落ち度をからかってくるとは……。

 

この敗戦は家康にとって苦い思い出になったのは間違いありません。

ただ、家康どんな物事にも必ず自分の糧にしようとするのが偉人たるゆえん。

 

この時の悔しさを忘れないように、と脱糞したままの状態で肖像画を描かせます!

すごい……。

けれど、そこは家臣団的には早く着替えてほしいかもしれません。(;’∀’)





 

家康の名言

天下人となった家康の言葉には重みがあります。

また、常に先を見通すような発言が多いのは先見の明があるからだといえます。

 

豪華な宝よりも優秀な人材が尊い

器物は何ほどの名物にても、 肝要の時に用に立たず。 宝の中の宝といふは人にて留めたり『岩淵夜話別集』

エピソードと合わせて有名な言葉です。

これは、豊臣秀吉が自分の宝をひとしきり自慢した後に家康の宝を聞いたときの返答です。

 

秀吉「どうじゃ、なかなかいい品をもってとるじゃろ。天下の宝はみな集めたぞい。これほどの品は持っておりますまい」

家康「どんだけ名器といわれていても肝心なときには役に立ちません。私の1番の宝は人材です」

秀吉「……」

このとき、秀吉は家康の言葉を聞いて二の句が継げなくなったそうです。

 

家康は人材を重視していました。

戦では、本田忠勝や井伊直政、内政では本田正信と優秀な家臣を揃えていたんですね。

今川義元に対しても「雪斎しか使わないから」と人材を重視しないことを指摘していたりと。

 

家臣としても大将に「宝」なんていってもらえたら誇りでしょうね!

 

諫言することは戦場での功よりも偉い!

およそ主君を諫める者の志、 戦いで先駆けするよりも大いに勝る『常山紀談』

歴史をよく学んでいた家康らしい言葉です。

古今東西、どんな国も主君が忠臣の諫言に耳を貸さずに滅んだ例はきりがありません。

 

そもそも諫言は、良薬は口に苦しのようなもので聞いていて愉快なものではないです。

むしろ上手くいっていないことなどを正直に告げると激昂されて打ち首、なんてことも。

 

失敗するリスクの方がはるかに大きいのです。

戦場での討ち死には、名誉として称えられます。その戦功が子に与えられたりということもあるでしょう。

諫言は主君が暗君であれば、左遷されたり処罰されることすら有りうる失うものの方が多い戦いなのです。

 

自分が間違っていることに自分は気づけないかもしれない。

それを指摘してくれるのは諫言してくれる臣下だけ、そんな思いもあったかもしれませんね。

 

東照宮御遺訓(家康の遺訓)

人の一生は重荷を負って遠き道をゆくがごとし いそぐべからず
不自由を常とおもへば不足なし
こころに望みおこらば困窮したる時を思ひ出すべし
堪忍は無事長久の基 怒りは敵と思へ
勝事ばかり知て負くることをしらざれば害其身に至る
おのれを責て人をせむるな
及ばざるは過ぎたるよりまされり

一番最初の文なんかは特に有名な気がします。

家康の生き方が濃縮に込められた遺訓で、なんだかちょっと重たい感じがしますね。笑

 

「人生とは重荷をもって遠い道を歩くようなものだ、急いではならない」

出だしからして重たいっ!

家康は倹約忍耐勤勉で生きてますからそんな感じになるんでしょうね……

いったいどんな業を背負って生きてきたのか、と言いたくなります。

 

でもこの家康の遺訓というのは日本人的には一番マッチしそうな考えだと思うのです。

堅実に成功の道を歩むための指針なんですね。

ただ、遺訓なだけあって2代目以降のためのものです。

 

家康があまり好かれていないのだとしたら、この遺訓通りの人間だったからではないでしょうか。

 

「耐えて天下とっただけやないの」

でも、なんとなく本能的にこの忍耐がどれだけ大変なことかを理解しているからこそ、この地味な天下人に対して嫉妬してしまうのかもしれません。

死因は天ぷらじゃない

俗説として家康の死因は、天ぷらの食べ過ぎによるものと言われていました。

天ぷらが好物だったことと家康が下帯を自分で締められないほどの肥満だったからでしょう。

 

俗説「天ぷらの食べ過ぎ」

鯛の天ぷらを食べ過ぎて食あたりによる死亡説です。

健康志向であるはずの家康がなぜ??

当時の私はこれを家康を貶めたい人の説だと思っていました。笑

 

現代の天ぷらとは少し違うのですが、家康にとっては好物でした。

しかし、腹痛が始まり、療養しても治ることなく亡くなってしまいます。

高齢であった家康に食べなれない油が消化不良を起こしたのではないか、という説ですね。

 

ガンが今のところ有力

医史学者はもともと胃や食道に腫瘍があったのではないか、と考えています。

天ぷらを食べてから3カ月以上経っているためにそれが直接の原因とはいえない、ということです。

 

家康のそばにいた医者の記録では、お腹にしこりがあると記述されていました。

水戸光圀や秀忠もガンで亡くなっているのでは、と言われています。

徳川家はもしかしたらそういう体質なのかもしれません。

まとめ

忍耐と長寿と先見の明によって家康は天下を取りました。

人生50年と言われた時代に75歳まで生きました。

 

家康には大きな博打を打つようなエピソードがありません。

何かしらの確証が得られると動き出す、という超絶慎重スタイル!

信長、秀吉と比べると地味でしかないのです。

 

目標を見据えて常に確実に積み上げていく姿は、平凡な人間にとって希望のようにも映ります。

己を信じて必ず勝利をつかんでみせる、最後に勝てばいいという家康を見習いたいものです。




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