高杉晋作が結成した奇兵隊とは?成り行きから終焉までをご紹介!
幕末を駆けた風雲児、高杉晋作。
吉田松陰の松下村塾で学んだ高杉はある画期的な軍隊を結成します。
奇兵隊。
彼らは幕末から明治維新にかけて大きな活躍をしました。
高杉晋作が結成した奇兵隊とは? また成り行きから解散までを簡単にご紹介いたします。
高杉晋作の奇兵隊はどんな軍隊?
奇兵隊は、藩士と藩士以外の武士・庶民から構成された混成軍隊のことです。
1863年に結成されました。
身分階級に厳しかった江戸時代に画期的な発想だったのは間違いありません。
高杉の師匠である吉田松陰の影響を受けてできたものでした。
身分関係なく構成されていた軍隊ではありますが、その実は階級の区別はされていました。
袖印や軍服の生地、色などでどの階級か見分けられていたようです。
最初は、明確な服装の決まりがなかったので徐々に整備されると同様に区別されていったのでしょう。
各部隊も浪人隊や力士隊というふうにわかれてはいます。
正規兵に対しての奇兵隊
奇兵とは、正規兵の対義語的な意味です。
正規ではないといった意味合いや、優れているといった意味もあるようです。
この西洋式にしようとした歩兵隊。
これは志さえあれば入れる隊なので、義勇軍と同じですね。
義勇軍というのはただのエリート集団よりも強いです。ただ、平穏と安定を享受していた藩士と違っていてヤル気が半端ない!
臆病風に吹かれることはありません、戦うことを前提に入っているわけですし。
また、奇兵隊の戦略は正々堂々と正面からぶつかるようなものは想定されていません。
「寡兵を以て敵衆の虚を衝き、神出鬼没して彼れを悩すもの」
「常に奇道を以て勝を制するもの」
トリッキーかつ俊敏に!
戦う相手には奇兵隊が厄介な相手だったのではないでしょうか。
成り行きから解散まではどうだった?
奇兵隊が結成されるにいたったのは、長州藩が緊迫した状況に置かれているからでした。
下関戦争で長州藩は近代化している欧米の列強艦隊の前に惨敗していました。
このままではいけない、と高杉は藩主毛利敬親の許可をもらって作ります。
高杉はたったの3カ月で総督を更迭される
近代化している奇兵隊でしたが、正規兵である撰鋒隊と衝突してしまいます。
1863年8月16日に起きた教法寺事件です。
まだ総督について3カ月でしたが、高杉は更迭されてしまいました。
ヤル気が高いのはいいのですが、ちょっと血の気にはやっていますね。(;’∀’)
1865年の第二次長州征伐で、奇兵隊は幕府軍をなんと撤退させる働きぶりを見せます。
その後も激しい戊辰戦争でも新政府軍の一部として戦い抜くわけですね。
戊辰戦争が終わり不要になった奇兵隊
戊辰戦争が終わったのち、彼らは論功行賞がたくさんもらえるものと考えていました。
当然と言えば当然ですよね。
命をかけて戦っていたのですからそれに見合う褒美は必要です。
しかし、5000人を超える常備軍を置ける余裕は山口藩にはありませんでした。
半分以上がリストラされ、新しい常備軍に入れた者は、元の身分が高かったり奇兵隊で役職についていた者だったり……。
もちろん、この対処に奇兵隊の一部は激昂します。
脱退したメンバーは反乱を起こします。
この反乱は木戸孝允が鎮圧しました。
奇兵隊のメンバーにはこんな人がいた!
奇兵隊の有名なメンバーを2人挙げておきます。
高杉晋作
言わずもがな、奇兵隊開闢総督です。
松下村塾の四天王の一角で、吉田松陰を慕っていました。
ぶっちゃけあまり人望はないですが、その才気は周囲も認めざるを得ないようでした。
脱藩してもまた藩に必要とされるなんてすごいですよね。
山縣狂介(山縣有朋)
低い身分から内閣総理大臣や軍の基礎を築いたりと大出世した男です。
松下村塾に短い間でしたが入塾していました。
奇兵隊でも軍艦に就任していました。
まとめ
もう一度簡単にまとめておきますと、
- 身分関係なく入れた義勇軍のような部隊
- 士気が高く幕府軍を追い返すほど強かった
- 高杉は3カ月で総督を解任される
- 戊辰戦争後は身分の低いものはリストラ!
この最後の切なさがなぜか新選組を思い出します。
新選組も武士の心得をもっていれば農民や庶民でも入隊できました。
最終的には恭順派に疎まれてしまう、というのもなんだか似てるな、と。
結局上の者に都合が悪くなれば切り捨てられる存在が悲しいですね。
しかし、それでも奇兵隊は庶民の強さを見せつけてくれた憧れの存在であることに変わりはありません。
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