石田三成の関ヶ原での評価は?島左近との関係はどうだった?
天下分け目の戦、関ヶ原の戦いを挑んだ石田三成。
概要だけでみると、味方の背信にも気づかず、人望もなく総大将でもない武将というイメージが先行してしまいます。
しかし、もともとは西軍が勝った、と外国の軍人が予想されるほど有利だったはずなのです。
光成だって勝つために戦をしたはずに違いありません。
石田三成は関ヶ原でどう動き、腹心の島左近と合わせて評価を見ていきます!
関ヶ原の戦いでの光成はどんな評価になる?
結論からいうと、戦略と方針はよかったものの、武将の心がつかめず敗けてしまった……!
要は、政治力で敗けてしまった戦といっていいのかもしれません。
そもそも、総兵力としては西軍が有利!!
兵の半分を持っている徳川秀忠が遅刻……なので家康の兵力は半減しています。(;’∀’)
関ヶ原の布陣でも東軍に西軍が正面から向かっていけば順当に勝てる配置になっていました。
光成もおそらくそう考えたに違いありません。
まさしく、机上では勝つことができる戦だったのです。
それでも、勝てなかったのは
- 総数では有利だったのに烏合の衆の西軍
- 家康の内通工作が成功してしまったから
の2つが要因だったと言えるでしょう。
ただ、これは光成の心の機微に疎いこととカリスマ性がないことに起因するような気がします。
7名に暗殺されかける光成
これは、関ヶ原の戦いよりも前の話です。
光成はなんと、細川忠興、藤堂高虎、浅野幸長、蜂須賀家政、加藤清正、福島正則、黒田長政に暗殺されかけます。
関ヶ原では蜂須賀家政以外は東軍で戦っています。家政自身もおそらく東軍で戦えるなら戦っていたでしょう。子の至鎮(よししげ)は東軍で戦っていました。
光成を嫌いだった連中はことごとく家康側へ……。
もともとこの時点で家康とも親しくなっている武将はいたことでしょう。
どんだけ嫌われているんだよ、とびっくりしてしまいました。(;’∀’)
余談ですが、このとき光成は家康に助けを求めています。
大谷吉継から評価は厳しめ?
吉継の評価としては、「光成が家康に勝っている点がない」。
なかなか手厳しい評価をしている吉継です。
だからといって光成のことを嫌っているわけではなく、事実をいっているだけなのでしょう。
吉継は光成と篤い友情を育んでいますから。
吉継が言う家康が光成に勝っている点とは、
- 光成と家康では格が違う(家康は250万石以上で10倍くらいの差)
- 家康は家臣からの信頼もあるし、人望もある
本来なら石田三成の名前で兵を招集するところでしたが、
吉継「君の名前で呼んでも集まらないだろうから毛利輝元に……」
ということになってしまいます。
ちなみに、吉継は何度も光成に戦いをしないようにと諫めています。
ただ光成は止まる気配がないため、吉継は無謀な戦と思いつつも味方をしました。
光成は吉継に命を懸けてもいい男と思われていたのでしょう。
島左近と光成の関係
島左近は、光成の家臣にあたります。
本名は島清興で、左近は通称とされていますね。
とても優秀な臣下で、光成は高禄で雇っていました。
石田三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城
有名な言葉ですが、これをいった人はさぞかし光成が嫌いだったのでしょうね。笑
一介の寺小姓あがりの光成が運良く過ぎたるものを手に入れられるとは思えません。
過ぎたるものの一つ、島左近はどのように家臣になったのでしょうか?
左近、光成に家臣として迎えられる
もともと左近は山城の国の筒井家に仕えていました。
しかし、定次とそりが合わずに浪人するようになったのです。
浪人をしていても左近は有名でした。
多くの大名から仕官の依頼があったのです。
三国志みたいなことは日本でも普通にあるんだな、と感動しますね!
さて、光成も左近には要請を出しています。
当時は4万石の大名で、
「自分の俸禄の半分をあげるから家臣になってくれないか?」
左近を2万石で雇おうという大名はたくさんいたことでしょう。
しかし、光成は自分の取り分を半減してまで家臣としてほしいと願ったのでした。
熱量半端ないですね!!
かくして、左近は光成の熱意に打たれ、臣下に加わったのです。
まとめ
光成は、やはり武将として数えるより有能な官僚として評価します。
武将として致命的に思うのは、やはり人望のなさを挙げるほかありません。
知略だの戦略だのも大事です。
しかし、戦場において総大将に必要なものといえばひとつしかありません。
それは、命を預けるに値する者か?
光成に命を預けたいと思える者は少数派でした。
島左近、大谷吉継、彼らは奮闘して西軍が一時有利になるほどでした。
それでも数で押し切られる形で敗れてしまいます。
特に、大軍を持っていた小早川を光成がしっかりと制御できていれば間違いなく西軍が勝てていたのではないでしょうか。
家康がその点、政治的手腕を発揮してしまったのでした。
人は正しさで動くとは限らない、というものを見る戦です。
光成にもっと人の機微がわかっていれば、と感じました。
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